嫁入婚以前の結婚の形態である、「妻問婚」「婿取婚」時代の婚礼は、平安時代の文献に多く見られます。「三日餅」(ミカノモチヒ。男側が女側のもとに忍び通い、その三日目に餅を食べる儀式。三日夜の餅などともいう)や、「露顕」(トコロアラワシ。忍び通いの三日間を経て周囲に公にする儀式)については前号でも述べましたが、『落窪物語』は、それらの儀礼が鮮やかに描かれた作品です。以下、そのあらましを紹介します。
主人公の落窪の姫は、中納言忠頼の娘で生母はすでに亡く、中納言とその後妻の北の方、四人の異母姉妹らと暮らしていますが、北の方からは継子(ままこ)いじめを受けていました。あてがわれた部屋が床がくぼんだ部屋だったので、落窪の名があります。そんな落窪の味方は、彼女の召使の阿漕(あこぎ)とその夫で、二人は”姫を何とかして申し分ない殿方に盗ませてあげたいものだ“と話していました。阿漕の夫と親しくしていた左近少将道頼が、落窪のことを聞いて思慕するようになり、姫のもとに通い始めました。通いが三日目になって、阿漕はなんとか自分の伯母に頼んで餅を用意し、新夫婦に「三日夜の餅」の儀式をさせました。このようにして、中納言家に知られることなく落窪夫婦は婚礼を挙げたわけですが、落窪の境遇もあり、「露顕」の儀式はできようもありませんでした。夫婦生活を中納言邸で続けるわけにもいかず、道頼は阿漕夫婦の協力のもとに、落窪を盗みだし、かくまうことに成功しました。
一方、中納言家では北の方が産んだ四女の婿として、他でもない道頼に白羽の矢をたてていました。道頼は落窪が受けた待遇に報復するため、自分の替え玉に、愚か者の兵部少輔(ひょうぶのしょう)をたてることにしました。夜になって、兵部少輔は四女の部屋に入りますが、替え玉であることは暗くて誰も気づきません。そして三日目、中納言家では「露顕」の祝宴の用意をし、燈火をあかあかと灯して待ちますが、婿が到着してびっくり、とぼけ顔の兵部少輔だったのです。とんでもない婿を迎え、しかも「露顕」の儀式も済んで、本意ではないのに婚姻が成立してしまったという話です。
恋愛結婚の古い形式に従って万事が進行するがゆえに生じた、悲劇とも喜劇ともつかない話です。その時代、「露顕」や「三日餅」の儀礼がいかに重要な意味をもっていたかがわかります。
(注)『落窪物語』平安時代初期の物語。作者不詳。継子いじめ物語の先駆。
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