婚礼の知識「結婚式編2」 「結婚式の歴史」
神話の世界の
結婚式

 日本の古い時代の結婚は、その形態も儀式も、今とは全く違ったものでした。しかし、神話の世界には、現代の神前結婚式にどことなく似た、一夫一婦の合意的結婚の模様が描かれています。それは、日本の国土や神々を生んだとされる、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の結婚式です。この二神は、性をもつ最初の神(最古の神々は男女の性を持っていなかった)でした。二人が天浮橋(あまのうきはし)の上に立ち、天矛鉾(あめのぬぼこ)をもって海を探られ、その鉾の先からしたたった滴が島となったといいます。二人はこの島に下り、八尋(やひろ)殿を建てられ、中央に丸柱を立てました。その柱を男神は左に廻られ、女神は右より廻られて、正面に行き合ったとき、女神は「あなにえや(ああ美しい)、え男を」と、男神も続いて「あなにえや、えおとめを」と言われた、というのが結婚式の模様です。そのうち女神は蛭子(ひるこ)を生みましたが、一説にこの子は三歳になるまで脚が立たなかったということです。「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」が柱を廻って出会った時に、陰神すなわち女神が先に発言して男神がそのあとで発言し、陰陽の順序が逆になっていたからだということで、今度は順序を変えて、男神から声をかけて儀式を行いました。その時はじめて、淡路島、大八洲が生まれ、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよみのみこと)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が生まれたといいます。左が先、右が後という順序は、例えば、左大臣が上で右大臣がその下であるなど、日本でも古来行われてきたことです。伊弉諾尊と伊弉冉尊の結婚式は、このように後世の儀礼に重要な指針をなしており、もちろん後世の結婚式にも影響を与えているようです。

平安時代の
形に従った
結婚式

 嫁入婚以前の結婚の形態である、「妻問婚」「婿取婚」時代の婚礼は、平安時代の文献に多く見られます。「三日餅」(ミカノモチヒ。男側が女側のもとに忍び通い、その三日目に餅を食べる儀式。三日夜の餅などともいう)や、「露顕」(トコロアラワシ。忍び通いの三日間を経て周囲に公にする儀式)については前号でも述べましたが、『落窪物語』は、それらの儀礼が鮮やかに描かれた作品です。以下、そのあらましを紹介します。
 主人公の落窪の姫は、中納言忠頼の娘で生母はすでに亡く、中納言とその後妻の北の方、四人の異母姉妹らと暮らしていますが、北の方からは継子
(ままこ)いじめを受けていました。あてがわれた部屋が床がくぼんだ部屋だったので、落窪の名があります。そんな落窪の味方は、彼女の召使の阿漕(あこぎ)とその夫で、二人は”姫を何とかして申し分ない殿方に盗ませてあげたいものだ“と話していました。阿漕の夫と親しくしていた左近少将道頼が、落窪のことを聞いて思慕するようになり、姫のもとに通い始めました。通いが三日目になって、阿漕はなんとか自分の伯母に頼んで餅を用意し、新夫婦に「三日夜の餅」の儀式をさせました。このようにして、中納言家に知られることなく落窪夫婦は婚礼を挙げたわけですが、落窪の境遇もあり、「露顕」の儀式はできようもありませんでした。夫婦生活を中納言邸で続けるわけにもいかず、道頼は阿漕夫婦の協力のもとに、落窪を盗みだし、かくまうことに成功しました。
 一方、中納言家では北の方が産んだ四女の婿として、他でもない道頼に白羽の矢をたてていました。道頼は落窪が受けた待遇に報復するため、自分の替え玉に、愚か者の兵部少輔
(ひょうぶのしょう)をたてることにしました。夜になって、兵部少輔は四女の部屋に入りますが、替え玉であることは暗くて誰も気づきません。そして三日目、中納言家では「露顕」の祝宴の用意をし、燈火をあかあかと灯して待ちますが、婿が到着してびっくり、とぼけ顔の兵部少輔だったのです。とんでもない婿を迎え、しかも「露顕」の儀式も済んで、本意ではないのに婚姻が成立してしまったという話です。
 恋愛結婚の古い形式に従って万事が進行するがゆえに生じた、悲劇とも喜劇ともつかない話です。その時代、「露顕」や「三日餅」の儀礼がいかに重要な意味をもっていたかがわかります。

(注)『落窪物語』平安時代初期の物語。作者不詳。継子いじめ物語の先駆。

参考文献/「結婚の歴史」江馬務著   (雄山閣)、「日本の婚姻」江守五夫著  (弘文堂)、「大間知篤三著作集第二巻」(未来社)

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