「三三九度」と「色直し」の変遷
三三九度の
はじまりと定着

 最古来よりのしきたりの中で、最も色濃く現代に残されているものは、「三三九度の盃」といえるかもしれません。三三九度のはじまりには、諸説あるようです。唐の国(今の中国)で、ひさご(ひょうたん)を二つに割って夫婦がこれで酒を飲んだのが日本に渡来したという説。また、応神天皇(五世紀)が、美女に出会われ翌日その家に行くと、その女性は天皇に御盃を捧げ歌を謡われたとあり、これが三三九度のはじまりだとする説もあります。
 室町時代、足利幕府が礼道を重んじた影響で、礼道の流派が生まれました。婚礼をはじめとする様々な礼式が整えられ、この時に、三三九度の手順の形式が整えられたのです。また、この時代には住宅の様式に変化が生じて”床の間“が作られるようになり、婚礼を婿側の、床の間のある部屋で行うことが一般化しました。
 桃山から江戸初期の婚礼式を描いた『婚礼法式』には、三三九度の前後の儀式について記されています。要約すると、床の間の部屋に入り婿と嫁は初めて向い合い、「式三献」の儀式が執り行われることとなります。膳には三つ盃が据えられ、女房(女中)が銚子を持って、花嫁から盃に注ぎ始めます。酒は、三度に分けて注ぎますが、三度目に多くつぎ、これを三回ずつ飲む…となっています。これが「三三九度の盃」で、この夫婦固めの式が済むと、祝宴になります。ただし、この祝宴には、父母、兄弟、親族は立ち会わず、夫婦二人だけの式だったようです。
江戸時代に入ってからは、この祝宴に親族も加わるようになり、また三三九度の盃も花嫁が最初だったのが花婿を初めにするなど、徐々に現在の形に近いものヘと変化してきたようです。

色直しの
移り変わり

 「色直し」も比較的古くから行われていたようで、室町時代に入ると「色直し」が”しきたり“として定着したようで、伊勢家の礼式書『宗五大草紙』(そうごおおぞうし)に、「初日より二日まで男女ともに白色を着すべし。三日目には色直しとて色ある物を着候」とあるなど、いろんな書物に「色直し」の言葉や様子が記されています。ただ、江戸時代に入ってから、色直しを急ぐ風潮が強くなったようで、”一夜の色直し“といって、一日で衣裳の色を変え、さらに眉を剃り、歯を黒く染め、袖を短くし、髪形を変える様になったとされています。色直しまでは厳粛な婚礼式で、色直しが済んで祝宴に入ることとなり、花嫁はこの時に初めて舅姑に対面しました。 

神前結婚式と
自宅結婚式

 明治時代になって、信教の自由が許されるようになり、神前結婚式、キリスト教式など色々な宗派の挙式が行われるようになりました。
神式においては、神社の祭壇飾りに三三九度の盃を配し、親族の盃が採用されました。現在、神前結婚式で行われている「三三九度」が、この時代に確立されたということになります。明治三十六年に、東京日比谷大神宮における、ある神前結婚式では、親族、媒妁人、知人などが出席して行われました。花婿、花嫁は神前の式に臨むと、斎主は両人を祓い清めて神前に進んで恭しく礼拝し、祝詞を読み、続いて媒妁人は持参した誓詞を読みました。これが終わると三三九度の盃となり、盃が済めば、花嫁・花婿は控所に戻り、婿方・嫁方の家族・親族が相対して盃を交わしました。ついで親族を紹介し互いに挨拶をしてめでたく式を閉じ、料理屋か宴会場に向かうこととなります。
自宅結婚式は、都市部では少しずつ減少しましたが、地方においては伝統の式が行われました。一般の家庭では、地方により多少の相違はありますが、「三三九度の盃」、「色直し」、「舅姑との盃」、「親族の盃」などの式次第でした。婚礼当日、あるいは数日後、友人知人を招いてのもてなしの宴を行い、御強(おこわ)、紅白の餅などがお土産に使われていました。

参考文献/「結婚の歴史」江馬務著(雄山閣)、「日本の婚姻」江守五夫著(弘文堂)

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